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エヴィータ ~ アルゼンチンに咲いた白く悲しい花

ヴィータがアルゼンチン経済をこわしたという話もある
難しいのだ
美談で終わらず、
貧民に対するばらまきだけではポピュリズムを生み
政治は腐敗する(注釈ですが)


NHK「ザ・プロファイラー」
まったく知らなかったが、深く胸を打つものがあった
司会のV6岡田君が、目に涙をためていた


エバ・ペロン - Wikipedia


マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(María Eva Duarte de Perón、1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。私生児として生まれながらフアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入するようになった。親しみを込めて呼ばれる通称としてエビータ(Evita) と呼ばれる。現在でもアルゼンチン国内では人気が高い。
出典 ウィキペディア


5人の私生児のうちの1人として誕生。首都のブエノスアイレスから離れた田舎町フニンで育つ。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。なお、高等教育は受けていない。
ブエノスアイレスでは、日系人カフェで女給をしながら、当初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしつつ、高級売春婦としても生計を立てていたが、1930年代後半頃より次第にラジオドラマの声優や映画女優として活躍しはじめ、B級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していた1943年に、パーティーで軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。
以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いでいたものの、度重なる政変と汚職により貧富の差が大きかったアルゼンチンで、貧しく無学な労働者階級(無学な文盲者の多くがラジオをその情報源・娯楽としていた)から大きな支持を得た。なお、その後使われるようになった「エビータ」の愛称は、ラジオドラマの頃から使われ始めたものである。


夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは、高等教育も受けておらず、またその権利も正当性もないにもかかわらず、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。
正義党への支援票を増やすべく、夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立した。また、ミシン、毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなど、「再分配」を武器に無学なブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をした。
出典 ウィキペディア


これらのことから、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。しかしエバによる再分配の資金は、税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。また、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。
さらに、下層階級出身でまともな教育も受けておらず、しかも選挙で選ばれたわけでもないのに国政に参加していたこと、経済状況も顧みずに公私混合の再分配を行っていたことなどから、きちんとした教育を受けた中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。また水着モデルで元高級売春婦、愛人というその経歴から、「淫売」、「成り上がり」と非難を受けた。カトリック信者がそのほとんどを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。


エバの人気に期待をかけたフアンは、1951年頃より、エバに副大統領の地位を与えさらなる政治的権力を得ようとした。この動きに対して、政府内におけるエバの影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、フアンはそのポストを与えることを断念した。
1952年、エバ・ペロンは33歳で子宮癌によって死去した。ブエノスアイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られて終わった。その後、遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。